川上弘美さんが『朝日新聞』に書いていた文章が印象に残ったということを前回書いたが、もちろんそれは東日本大震災に関する内容がこちらのアンテナに引っかかったということではあるものの、導入部で紹介されたエピソードが影響している部分もあったのだと思う。
川上さんは、27年前に書いた「神様」という短い話のことを最初に書いていて、その「神様」を東日本大震災後に「神様2011」として書き直したというところから本題に入っていくわけなのだが、そのもともとの「神様」を書いた当時、幼稚園に入ってからも言葉が出てこない息子のことで悩んでいて、「ふつうのこども」ではない息子と自分だけが世界からずれた場所にいるという感覚を抱き、まるで「異世界からきた存在」のように感じていたというのだ。
実はぼくの息子も「ふつうのこども」ではなく、川上さんの書くように、自分たちが世界からずれた場所にいるように感じた経験がある(もちろん、息子と一緒にいる時間は妻のほうが長いので、そうした経験は彼女のほうが多いだろうが、ぼくも一度ならずそうした感じを抱かざるをえない状況に置かれた)。いくら言い聞かせても、自分より小さいこどもに息子がちょっかいを出すようなことが何度もあり、そのたびに、相手のこどもの親から文句を言われたり、謝罪を求められたりする。そうしたことがあると、「息子はふつうのこどもではなくて……」と説明したい気持にもなるのだが、本当に説明しようと思えば長々と話さなくてはならず、それでも理解してもらえるかどうかはわからない。結局、その場に必要な最小限の釈明と謝罪の言葉を述べて事態を収拾しようとするのだが、そうしつつ、自分たちと相手側のあいだにどうにも埋められない距離のようなものを感じてしまう。
いつだったか、演習形式の授業で、学生が発表をして、その発表について授業用のネット掲示板で意見交換をしていたとき、発表のなかで使われた〈ふつう〉という言い方に別の学生がかなり強い反応を示し、少なからず驚かされたことがある。小説や映画についての授業だったが、発表者が「あの作中人物はふつうの人で」とか、逆に「あの人物はふつうとはちょっと違って」といった言い方をしたのに対し、掲示板に書き込んだ学生は、「〈ふつう〉が何かを規定せずにむやみに〈ふつう〉など言わないでほしい」という意見を表明していたのだ。実は、掲示板に書き込んだ学生は精神的にやや不安定なところがあり、発表者の言葉を自分に引きつけて考えてしまうところがあったのだと思うのだが、そのようにあらためて言われると、〈ふつう〉とは何を指すのかと考えてしまった。
ぼくらはごく自然に〈ふつう〉という言い方をしてしまうが、それはある意味で線引きをしていることにもなりがちだ。相手は〈ふつう〉の側にいて、ぼくと息子は〈ふつう〉ではない側にいる、そう思うとそこに架橋を試みるなど不可能に思えてきてしまう。それはたとえば人種差別などにおいても起きていることだろう。もちろん、ぼくと息子が差別されたと言うつもりはないが、ある種の線引きが生じてしまったという意味では同じ構造だと思うのだ。そしてそれは実は誰にも起こりうることで、たとえば知り合いに不幸があった場合などにも出てきてしまう構図だ。家族や親しい人を亡くした人に対して、ぼくらは悔やみの言葉を言うわけだが、口先だけでなく、心からの言葉であっても、相手とのあいだにどうしても溝を感じてしまう。今度は、こちらが〈ふつう〉の側にいて、相手が〈ふつう〉ではない側にいるのだ。悔やみの言葉は、その距離を少しでも埋めるためのものだが、その悔やみの言葉を口にしたり書いたりすることで、ぼくは逆にそうした距離があることを意識してしまう。震災の被災者と被災していない人間のあいだにも、同じようなことが起きるのではないだろうか。もちろん被災者にとって、声をかけてもらったり、手助けしてもらったりすることは、必要なことでもあるだろう。しかし同時に、それは被災者とそうではない者のあいだの違いを浮き彫りにする。被災者の気持、特に身近な人を失った気持は、被災していない人間にはどうしたって本当の意味では理解できるはずはないのだ。
文学や芸術の存在理由をことさらに挙げる必要などないだろうが、本来、そのような溝を少しでも埋めるのに寄与するのが文学や芸術ではないのか。ところが、その溝を埋めようとする行為が逆に溝を際立たせることにもなってしまうという逆説。しかし、たとえそうだとしても、川上弘美さんも書いているように、その溝を越えられないという「申し訳なさ」を直視することから始めるしかないのだ。相手の本当の気持はどこまで行ってもわからない。だがそのわからなさをあえて認めたうえで、それでも少しでもわかろうとすること、それも、たとえば言葉といういかにも不完全な道具(どこまで行っても気持そのものとイコールにはなってくれない道具)を使ってそう試みること、そうすることでしか、たがいがたがいを「異世界から来た存在」のように感じている者どうしのあいだに接近の可能性など生まれないのだろう。
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