また不在の日々を重ねているうちに、2023年もあと1時間ほどで終わることになってしまった。
今年も、多くの方が鬼籍に入っていった。日本の文学者のなかでは、やはり大江健三郎のことがまずは思い返される。すでに小説は発表しなくなっていたとはいえ、エッセイのたぐいは書いていたし、「九条の会」などでの活動をしていたのだから、まだまだ現役だったと言えるだろう。
ぼくにとって、大江健三郎はかなり上の世代にはなるが、高校生のときに初めて彼の短篇に出会い、それから彼の小説を次々に追いかけるように読んでいった。10代後半の自分が世界に対して覚えていた違和感のようなものを表現してくれる作家だという気がしていた。それまでは、いろいろな小説を読んでも、あくまで小説のなかだけの話だという気がしていたが、大江健三郎を読んで、小説で描かれていることが初めてアクチュアルに感じられたのだ。
大江健三郎を追いかけていたのは、かろうじて『同時代ゲーム』あたりまでだろうか。彼が息子の光のことを小説に盛り込むようになってからは、小説としてはおもしろくても、ぼくには縁遠い世界のことを描いていると感じるようになってしまったからだと思う。おそらく、いま読み返せば、また違った感慨を抱くのだろうが……。
ところで、大江健三郎の逝去にも増してぼくにとってある意味でショックだったのは、原尞が亡くなったことだった。
1988年の『そして夜が甦る』から始まる私立探偵の沢崎を主人公としたシリーズは、第3作の『さらば長き眠り』からは、10年あるいは10年以上の間隔をあけて、もう続篇はないのかと思っていたころに発表され、読者に嬉しい驚きをもたらした。第5作の『それまでの明日』(2018) が刊行されているのに気づいたときにも、ぼくは軽い驚きの感覚をもったものだ。その『それまでの明日』では、古臭い探偵といっていい沢崎がちゃんと現代に生きているのが、おもしろくもあり、なんだか不思議な感覚でもあった。2024年以降の世界にいる沢崎に出会えないのは残念だし寂しいが、これからは読書で時を遡るしかない。
原尞の追悼として、『それまでの明日』のラストを引用させてもらおう(このラストだけを先に読んだとしても、この作品のおもしろさがそれで減じることはないはずだ)。
「かすかに震えている指に挟まっていたタバコをくわえなおして、ゆっくりと煙りを喫いこんだ。私はどうやらまだ生きているようだった。」
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