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​PHTO GALLERY

I早稲田大学法学 「教養演習(表象文化F)]という授業の延長で、原則として毎年、年度末に写真展を開いてきました。その記録をお見せします。

2019年度写真展
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SIMILARITY

                 Masachika TANI

 私はあなたではなく、あなたは私ではない、そんな当たり前の事実が、水に漬けた砂糖の塊のように溶けていく。水面に映るのは、私なのか、私ではない誰かなのか。あそこに見えるのは、地上の樹木であり、はるかかなたに広がる空なのか、それともその反映なのか。だいいち、たとえそれが水面に映った虚像にすぎないとしても、そこには樹も空もないと本当に言えるのだろうか。私たちが現実と思っているものは、水と光が作り出したこのイメージ以上に確かなのだろうか。フーコーがマグリットの絵画について語った「相似」と同じで、こうしたイメージは、オリジナルにではなく、それ自身に送り返されるかのようだ。水面を走り、広がり、応え合う「転移」の連続……。イメージが現実以上に存在感を持つと感じてしまうこの逆説をどう受けとめればいいのか。すべてが揺らいでいくなかでふと思う、あの鳥たち、あの魚たちにこの世界はどう見えているのか、と。この目の前の現実に相似した別の現実が、水紋さながらに、次々に生まれて広がっていく。何にも似ず、だからこそあらゆるものにとっての相似となる水=イメージの戯れ。

​2018年度写真展
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KITSCH TOKYO

                Masachika TANI

​ オリンピックが招致されたことで東京の景色が変わった…… 、1960年代にようやく自意識が芽生えてきた少年の眼にも、そのことはばくぜんと見えてはいた。あちこちで重機が音を立て、街全体がなにか熱を帯びていたような記憶がかすかにある。だが、その結果として出現した街の姿が本当に見えてくるのは、それから10年以上が経ち、3年間の留学を終えて東京に戻ってきたときのことだ。ヨーロッパの落ち着いた街のたたずまいに較べ、東京はポストモダンとでも呼ぶしかない、どうにも説明のつかない混沌のなかにあるように見えた。なかでも眼を引いたのが、にょきにょきと伸びてきた節足動物の脚さながらに街路にはみ出す看板、そして、華やかではあるがいかも安っぽい色彩を慌ただしく明滅させるネオンだった。かつての少年は、祭りの縁日で覚えるのにも似た、奇妙な高揚感を胸に抱きつつ、その風景を呆然と眺めていた。そのとき彼の頭に、「キッチュ」という言葉が浮かんでいたかどうか。ヨーロッパの街が美の観念を教えてくれたのだとすれば、東京は、嫌悪の感覚を呼び覚ましつつ、なぜか惹きつけてもいた……。

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