川上弘美さんの文章を引き合いに出しつつ、息子と自分が「異世界から来た存在」のように感じられたというようなことを前回書いたが、ならばお前は息子のことが理解できているのかと問われれば、それこそ息子が「異世界から来た存在」のように見えてしまうことが少なからずあると告白するしかない。
もちろん、たとえ家族であっても他者であることに変わりはないので、完全に理解することなどもともとできはしない。だが、「ふつうのこども」ではない息子の内側でどのような思考や感情が渦巻いているのかを想像するのはやはりなかなか容易なことではないのだ。せめて常識的な考えやルールをこちらから押し付けることはなるべくせず、可能なかぎり息子に寄り添いたいとは思ってはいるのだが、それとても、日々の生活のなかでは後回しになりがちだ。
理解することがむずかしい存在とどのようにコミュニケーションをとるのか、それは人間にとって難しく、それでいて根本的な問題だろう。答えは簡単には出てこない。しかしまずは、この前も書いたことだが、お互いの違いから逃げず、その違いを直視するしかないのだろう。そしてそのうえで、可能なかぎり寄り添うということなのだろう。
小説や映画でもそうした問題をテーマにしたものは多い。たとえば、いずれも小説の映画化である作品が2つほどすぐに思い浮かんだ。どちらも映画を観て原作の小説に興味を抱いたものの、まだ読んではいないので、映画版をもとに話をするしかないのだが、ひとつは、昨年公開された『星の子』だ。
新興宗教にはまり、それこそ「ふつう」ではなくなっている両親とその娘の関係を、中学3年生の娘の視点で描いた作品だ。
もうひとつは、3組の母と息子(3組の母子の住む場所はばらばらだが、息子は3人とも10歳で、名前も同じ)の関係を、今度は母親の視点から描いた『明日の食卓』(5月末公開)だ。
この『明日の食卓』については、監督が瀬々敬久さんで、いかにも瀬々監督らしく、3組の母子のあいだにほとんど接点がない一種の群像劇のスタイルで展開するのだが、最後に3組の母子に一種の接点が生まれ、しかもそれは母と息子がきちんと向き合うことを示唆するシーンにもなる。そのとき母と息子は、ある同じものに視線を送っているのだ。
『星の子』においても、映画のラスト、両親と娘は一緒に同じものを見つめる。もちろん、それでおたがいが理解できるということではないだろう。しかし、そのように寄り添って視線を同じ方向にむける、そこからすべては始まるのだ。
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