top of page
執筆者の写真昌親 谷

『映像が動き出すとき』について(その1)

 もう何年前からだろう、おそらく20年近くにはなるのではないかと思うが、若い友人たちと研究会をやっている。最初は漠然と「モダニズム研究会」のような感じだったのだが、ある時期から「Image Study Session」という名称にして、イメージ論的な観点からいろいろな問題を扱う研究会という位置づけにした。

 最初のころは、参加者が順番に発表をしていくという形式で、これはこれで非常に刺激的だし、ひとによって興味を持つ分野が違うので、さまざまな領域についての話題に触れることができてよかったのだが、とりあえず一巡してしまうと、なかなか二巡、三巡と続けていくのはむずかしく、かといって、新たな参加者がそれほど多いわけではない。

 そこで、10年ほど前からだろうか、読書会形式にすることになった。ジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』だとか、ディディ=ユベルマンの『ヒステリーの発明』『イメージの前で』などを読んだりしていたのだが、徐々に映画関係の本が増えてきて、ここ数年は、英米系の映画研究を覗いてみようということで、スタンリー・カヴェルの『眼に映る世界』、フレデリックの『目に見えるものの署名』を読んでいた。その後、たまには文学も扱おうという気持があり、また、参加者のなかにシュルレアリスムに関心のある者がいたことで、かなり前の本ではあるが、フェルディナン・アルキエの『シュルレアリスムの哲学』を取上げた。

 たまたまではあるが、『シュルレアリスム宣言』から100年の年に『シュルレアリスムの哲学』を読み終えて、さては次は何をと話し合った結果、トム・ガニングの『映像が動き出すとき』を読んでみようということなった。

 その『映像が動き出すとき』についての読書会を、年の瀬も押し迫った12月28日(土)に開いたので、その読書会をとおして個人的に考えたことを少し書いておこうと思う。


 読みだす前は、あくまで映画論なのかと想像していたが、実際には、写真やコミック、そしてアニメーションなどにかなりの分量が割かれた本となっている。そういう意味では、イメージ論的とも言えるだろう。

 今回の読書会で読んだのは、第一部「遊戯するイメージ」の第1章「視覚の新たな閾——瞬間写真とリュミエールの初期映画」と第2章「インデックスの何が問題なのか? あるいは、さまざまな偽造写真」。

 もともとこの本は、ガニング自身が構想したものではなく、編者である長谷正人さんをはじめとする訳者たちが独自に選んでまとめた論集だが、精選された論考がおもしろい構成で並んでいると感じさせる。今回読んだ2章もそれぞれ興味深かった。

 第1章はリュミエールの初期映画についての文章だが、リュミエールのシネマトグラフはあくまでアマチュア写真の延長に生まれてきたもので、とりわけ、当時さかんに撮られた瞬間写真との関係が論じられている。わたし自身は、リュミエール兄弟についての文献をそれほどしっかり読んできたわけではないので、そうしたアマチュア写真との関係というのは意識してこなかったし、ましてや瞬間写真のことはまったく知らなかったので、非常におもしろかった。

 だが個人的にそれ以上に興味を引かれたのは、ガニングがリュミエール映画をエディソンのキネトスコープと比較しているくだりだ。アマチュア写真との関係がほとんどなかった気ネストスコープでは、絵画的な意識が欠如していたため、「ブラック・マリア」とあだ名されたスタジオで、黒い背景の前で展開するさまざまなアクションに光を当てた映像となっていた。つまり、キネトスコープを覗く人の眼に映るのは前景のアクションのみで、空間の広がりはまったく意識されないことになる。

 それに対して、アマチュア写真の延長に登場したシネマトグラフの場合、構図やコントラストの意識が強かったことで、空間的な広がりが生じる。なかでも、画面のなかにさまざまな動く要素が含まれ、それらが、注意深くバランスをとった構図のなかで、全体の統一を転覆させかねないものになるとカニングは言う。たとえば、『赤ん坊の食事』の後景で風にそよぐ葉、『カード遊び』におけるグラスのなかのビールの泡がそうで、これらは作品の構成論理にとっては従属的だが、観客たちの意識のなかでは前景化されてしまう。こうしたいわば中心的ではない動くを要素を、ガニングは、ロラン・バルトが写真論で使った用語を借りて、「動くプンクトゥム」と呼んでいるのだ。こうした「動くプンクトゥム」があることが、まさに映画の魅力となっていくのではないだろうか。


 リュミエール映画を論じるにあたって、ロラン・バルトの写真論を援用したガニングだが、第2章はまさに写真論であり、ロラン・バルトの『明るい部屋』に加え、アンドレ・バザンの「写真映像の存在論」(『映画とは何か』所収)に基づいて「写真術に対する現象学的な魅惑」が語られるのである。

 この文章自体は、タイトルにもあるとおり、写真におけるインデックス性を論じたものである。ガニングは、フィルム写真からデジタル写真への移行が起こり、さまざま偽造写真が横行するようになっても、写真のインデックス性は消えていないと主張する。偽造写真そのものも、写真のインデックス性があるから成立するというわけだ。

 そうした主張の延長として、彼は、写真術に対する現象学的な魅惑が生じるのは、写真とその先行的現実(リアリティ)との関係についての感覚、すなわちインデックスが保たれているからこそであると述べつつも、そのインデックスによる解釈では完全に説明しきれない魅力が写真にはあることを彼は確認する。その魅力とは、「ほとんど無限の細部」がもたらす、「何かしら直接的に私たちを撃ってくる」ようなもののことである。インデックスで説明がつかないのは、写真が記号以上のものであるからで、記号であれば、指示対象を特定の意味作用に縮減させてしまう。それに対して、写真は、「奇妙なやり方でだが、自分自身を越えて何かを指し示す」、つまり、「写真は、ひとつの意味作用としてではなく、ひとつの世界、しかも多元的で複雑なひとつの世界として、被写体への道筋を開いている」のである。だからこそガニングは、写真は記号ではなく、「何物かの現前」だと断言する。

 写真を記号以上のものにさせているもの、それは写真を意味作用に収斂させない過剰な「ノイズ」や偶然性の感覚だ。これこそまさにロラン・バルトがその写真論でプンクトゥムと名づけたものにほかならない。

 だが、写真がそのように記号以上のものとなり、プンクトゥムが見出せるようになるのは、もともと写真が他の表現媒体以上にインデックス的だからだ。それが写真のリアリズムでもあるわけだが、インデックス性を徹底することで余計な意味を削ぎ落し、「視覚的な豊かさと過剰な細部」を獲得しているのが写真というメディアなのである。アンドレ・バザンは、「無感動なレンズだけが、事物から慣習や先入観を取り払い、私が事物を知覚する際につきまとう精神的なもやを追い払って、私の注意深いまなざしに向けて、つまりは私の愛情に向けて、事物を手つかずの姿で差し出すことができるのだ」(『映画とは何か(上)』、岩波文庫、p. 19)と述べていた。あるいは、ロラン・バルトが初期の写真論で、写真はコード化されないメッセージであり、外示的イメージそのものとしていたことを思い出すべきだろう(ロラン・バルト『映像の修辞学』)。

 さて、すでにこの直前の部分は、ガニングの文章の要約というよりは、わたしの読み取りになってしまっているのだが、ガニングは写真にはつねにインデックス性がつきまとうと主張しているのだから、彼の考えをたどっていけばこうならざるをえない。インデックス性を徹底させることで、写真は記号を超えていくという一種の逆説が生じるのである。

 しかしそうであるなら、いくらインデックス性は消えないとはいえ、デジタル化が進み、極端な加工が施され、写真の画面全体がコントロールされるようになっていけば、あるいは映画においても、CGが全面的に使われ、さらにはAIまで導入されるようになったら、ガニングが言う「視覚的な豊かさと過剰な細部」は薄まり、消えていくのではないか。つまり、プンクトゥムは生じにくくなるのではないか。これが、トム・ガニングの文章に共感を抱きつつ、私がどうしても抱いてしまう疑問である。



閲覧数:1回0件のコメント

最新記事

すべて表示

『ロストケア』について

前田哲監督の『ロストケア』(2023年、114分)を劇場で鑑賞。 訪問介護を受けていた老人が亡くなり、その家で介護センター長の死体も見つかったことがきっかけで、検事の大友(長澤まさみ)は、介護センターの職員である斯波(松山ケンイチ)に疑いの眼を向けるようになる。...

『うつろいの時をまとう』

今週公開の新作映画のなかですでに観ているのは、昨日(3月25日)からシアター・イメージフォーラムで上映が始まった『うつろいの時をまとう』のみです。 『うつろいの時をまとう』は、服飾ブランドmatohu(まとふ)についてのドキュメンタリー映画。matohuは堀畑裕之と関口真希...

映画『零落』『郊外の鳥たち』について

明日3月17日(金)および明後日3月18日(土)に公開される映画のうち、試写会で観ている『零落』と『郊外の鳥たち』について書いておきます(ただし、『郊外の鳥たち』に関しては、Facebookにすでに載せた文章に加筆したものを使います)。...

Comments


bottom of page