【Facebookに3月10日に投稿した文章ですが、むしろブログ向きと考え、一部加筆して掲載します】
先週3月10日(金)に封切られた2本の映画、そしてすでにそれ以前から公開されている2本の映画について。
先週公開された2本は、『Winny』と『オマージュ』。いずれもオンライン試写で鑑賞した。ちなみに、オンライン試写は、コロナ禍になってかなり一般的になってきた形態で、たしかに便利だが、やはり、たとえ試写室のさほど大きくないスクリーンであっても、スクリーンで見ることができるのであれば、そのほうがぼくは好きだ。それに、オンライン試写の場合、登録するとなんだか安心してしまい、視聴期限を忘れて、結局見られない、ということも起きたりする。実際、3週間ほど前に封切られた『逆転のトライアングル』と『少女は卒業しない』の2本を、そうした形で見逃してしまった。
前置きが長くなったが、まず『Winny』について。
『Winny』はタイトルにもあるWinnyの開発者・金子勇さんとその金子さんの弁護人を務めた檀さんについての実話を基にした物語。
Winnyをめぐる騒ぎのことは覚えているが、金子さんの裁判のことは、それほど関心を持っていなかったせいか、記憶になかった。映画自体は、司法ドラマとしても、技術開発者の人間ドラマとしても、見ごたえがある。日本映画には社会派的な作品が少ないとよく言われるが、警察の裏金問題のこともからめ、個人と国家の関係にも切り込んでもいる。
金子さん自身がそうだったのだろうが、事件の被疑者にされながらも能天気といえるような様子で新しい技術のことだけを考える姿が印象的だし、それだけに、そうした有能な人物から技術開発のための時間を奪ってしまったことが痛ましく感じられる。ちなみに、金子さんは、星や飛行機が好きな人物としても描かれていて、そのあたりもおもしろい。
ぼく自身、事件のことを本当の意味ではこの映画で初めて知っただけに、松本優作監督の「映画という文化は、ある時代の中で、埋もれてしまった場所に光を当てることだと思います」という言葉が胸にしみる。
次に韓国映画『オマージュ』。
映画をめぐる映画で、しかもなかば失われた映画プリントを探すという物語には興味を引かれる。ラストも映写機のまわる音が聞こえてくるなど、映画へのノスタルジーにあふれているが、それでいて、ことさらに湿った映画にはなっていず、自立と自由を求める女性の物語でもあるのが、いまの時代を象徴しているともいえそうだ。この映画の監督であるシン・スゥオンは、女性が映画監督という仕事を務めるうえで出会う困難を、自身の体験も盛り込んで、うまく作品に仕上げている。
影や鏡像、そして帽子、煙草、フィルム片などの小物の使い方がいいアクセントになっている。
閉鎖寸前の映画館の天井に開いた穴から入ってくる光でフィルムに映っている内容を確認し、何も映っていない映画館のスクリーンに外の景色が反映するといった、映画をめぐるなかば反転したような描写もおもしろく感じた。
公開中の2本は、『Worth 命の値段』と『コンパートメント No. 6』。
『Worth 命の値段』は、たしか1月に、試写会で観た。9.11テロの犠牲となった被害者たちの補償基金プログラムに携わったケネス・ファインバーグ弁護士の物語。『Winny』と同じで、これも実録物だ。
これに関しても、9.11後に補償をめぐるこうしたさまざま折衝があったことはこの映画をとおして初めて知った。日本の場合、もしテロが起きたら、国は補償をしてくれるのだろうかとふと思ってしまう。
『バットマン』や『バードマン』がどうしても思い出されるあのマイケル・キートンが、初老の弁護士役をやるようになったのだと、まずはそのあたりが感慨深かった。
冷静に、計算で補償額を出すことをめざしていたファインバーグが、さまざまな問題にぶつかり、被害者家族のひとりひとりに寄り添うようになる変化が描かれる。なかなか複雑な問題を取り上げているが、弁護士事務所に入ってきたばかりの新人の視点も入れることで、見やすい映画になっている。
監督のサラ・コランジェロは、まだ若い人だと思うのだが、堂々とした演出だ。それも、ハリウッドがこうした社会派ドラマで培ってきた歴史があってこそなのだろう。
最後に、すでに公開されて1か月以上が経つ『コンパートメントNo. 6』。フィンランドの監督ユホ・クオスマネンの作品だが、物語は1990年代のロシアで、しかも半分以上のシーンがモスクワから地方に向かう列車のなかで展開する。
列車のなかが舞台になる映画というと、ヒッチコックの『バルカン超特急』、ジャック・ターナーの『ベルリン特急』などが思い起こされる。いずれも、緊張感にあふれたみごとな作品だ。もちろん、アガサ・クリスティー原作の『オリエント急行殺人事件』もある。だが、『コンパートメントNo. 6』の場合、殺人や事件が起きるわけではない。男女が列車内で出会うという意味では、『ビフォア・サンライズ 恋人たちのディスタンス』に近いともいえるが、ラウラとリョーハのあいだに明確な恋愛感情が芽生えるわけでもない。だからこそ、一応の旅の目的はあるものの、ただ移動していくという感覚が生まれる。移動していくなかで、ひとりの人間がもうひとりの人間と、すれ違うようにして触れ合っていく。その感覚がある種のノスタルジー――たしかに過去を舞台にしているとはいえ、それだけでないノスタルジー――を生み出す。もはや触れられなくなったものにかすかに触れる感覚としてのノスタルジー。それは『オマージュ』にも通じるものかもしれない。
この映画は、新宿の映画館まで観に行った。観ようと思ったのは、『朝日新聞』に載った山根貞男さんの映画評を読んだからだ。そうでなかったら、おそらくこの映画を観ようと思わなかっただろう。これまでも、山根さんの映画評のおかげで多くの作品と出会うことができた。軽妙な調子で締めくくられる映画評を読んでから10日ほどのち、山根貞男さんの訃報に接することになった。もしかすると、あの映画評が最後の原稿だったかもしれない。
ぼくのもとに届く試写状は、あまりメジャーでない映画のものが多い。それでも、試写室に行くと、山根貞男さんを見かけることがよくあった。いかに山根さんが多くのを映画を、それも分け隔てなく観ていたか、ということだろう。映画を観ていくうえでのぼくにとっての羅針盤のひとつが失われてしまった。
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