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人間を「アニメ」する映画——『急に具合が悪くなる』

  • 執筆者の写真: 昌親 谷
    昌親 谷
  • 5月25日
  • 読了時間: 4分

 たとえば進藤兼人監督の『裸の島』のように、まったく台詞のない作品も存在するが、劇映画の場合、通常は会話を積み重ねることで物語が進行していく。そうした劇映画のあり方のなかでも、濱口竜介監督の場合は、会話劇の色合いが強い。だが会話劇と言っても、小津安二郎やエリック・ロメールのように、家族や恋愛にまつわるテーマを扱うわけでは必ずしもない。ときに、実に理屈っぽい会話が続いたりするのだ。しかも濱口監督の作品は往々にして長尺である。5時間17分も続く『ハッピーアワー』ほどではないにしても、新作の『急に具合が悪くなる』も上映時間が196分、つまり3時間16分であり、日常的な会話ももちろんあるものの、ときとして資本主義についての議論が展開したりする。なにしろ原作は、哲学者と文化人類学者が交わした往復書簡をまとめた本なのである。そうした、いわば硬派の会話すら出てくる長尺の映画でありながら、いささかも観客を飽きさせない——少なくともわたしは飽きなかった——ということにまず驚きを覚えずにはいない。

 同じ会話でも、小津の場合なら独特の語彙やリズムが楽しいし、ロメールの場合は他の映画では出会えないナチュラルな話し方が魅力的なのだが、濱口作品の場合はそのいずれとも異なる。なにしろ現代社会の問題などを作中人物が論じるのだから、小津やロメールの場合のようになるはずがない。ときに不自然に感じるような会話すらありながらも、それでも惹き込まれてしまうとすれば、それは、そこでの会話がたんなる言葉のやりとりに終始していないからだろう。

 そのことは、映画の多重的な層のなかで起きている。たとえば、会話劇である一方で、きわめて映画的なアクションに充ちた作品でもあることをまずは考えておかねばならいだろう。ふたりのヒロイン、パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長をしているマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と、日本人が日本語で演じる劇の演出をパリで手掛けている真理(岡本多緒)、このふたりが二度目に会い、延々と会話を続けるシークェンスでは、最初は劇場のなかでのQ&Aから始まり、その後、ふたりで劇場から出て、河岸へと続く長い階段を降りながら会話を始め、川沿いを歩きながらその会話が続き、さらに「自由の庭」に場所を移して会話が再開され、明け方近くまで彼女たちは語り明かす。この間、場所が変わるだけでなく、ひとつの場所でもそれなりに移動したり、なにかの動作をしながらの会話で、「自由の庭」では、途中でマリー=ルーが介護の作業をすることもあり、それを手伝う真理とのあいだで、それなりにふたりの話は続いていく。実にさりげないものではあるが、アクションが映画そのものを活気づけるシークェンスになっているのだ(ちなみに、本作の撮影監督は、ギヨーム・ブラック監督作品を数多く手がけているアラン・ギシャウアであり、このシークェンスにかぎらず、彼の撮影が静かな躍動感をもたらしていることも忘れてはならないだろう)。

 だがそれだけではない。『ドライブ・マイ・カー』で濱口監督自身が劇中で主人公・家福の演出術として再現してみせたように、濱口作品では、まずは脚本を延々と棒読みするという過程を俳優たちは経ることになる。その一見無駄にも見える独特の本読みの過程を経ることで、言葉がただ意味の代替としての記号ではなくなり、いわば俳優にとって身体化されたものになっていくのではないだろうか。

 そしてそれは、『急に具合が悪くなる』で真理が実践してみせるワークショップにどこか重なる過程なのだ。真理が「自由の庭」で実践するワークショップによって、入所者や職員たちは、これまで意識していなかった自分の身体を意識するようになる。いわば、身体を真の意味で身体化するのだ(『ハッピーアワー』にもワークショップのかなり長いシークェンスがあったのを思い出すべきだろう)。そしてその身体化は、逆説的な言い方ではあるが、身体に魂を戻すことにつながるのだ。

 「自由の庭」は、ケアを受ける人間の感情や意志を尊重する「ユマニチュード」という方法を導入している設定になっているが、この「ユマニチュード」は、言ってみれば、介護や医療の対象にも魂の存在を認める姿勢なのである。さらに、この映画で真理が演出している劇は、濱口監督が文化人類学者・松嶋健の『プシコ ナウティカ——イタリア精神医療の人類学』を参考にして創作したものであり、とくに松嶋の著作のなかの「〈人間〉に対するアニミズム」、すなわち魂を持たない存在として人間を扱う傾向の強い社会のなかで、人間に魂を返す働きを主題にしている。人間そのものを意識化させるワークショップが扱われているのであり、「アニメ(animer)」という語がフランス語の動詞として本来持っている意味、つまり、「命を与える」「魂を持たないものに魂を与える」という意味では、人間の「アニメ」が試みられているである。

 そうした人間の「アニメ」を体現するのが濱口作品における会話なのだ。ぼくらのなかに少しでも魂の片鱗が残っているなら、少しでも魂への希求があるなら、そのような会話に惹かれないままでいることなど不可能だ。


 6月19日(金)公開。

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