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過去への変換装置としての映画——『メモリイズ』

  • 執筆者の写真: 昌親 谷
    昌親 谷
  • 6月5日
  • 読了時間: 4分

 冒頭はフェリーの船室の窓、そしてラストでは、寝室の窓が映る。冒頭のシーンの場合、窓からの景色はほとんど変わらないものの、窓の前に座っている人物が次々に変わっていく。一方、ラストでは窓の前には誰もいず、窓から風景が映るだけだが、その風景がそれぞれの季節を示すものにやはり変化していく。窓がスクリーンの比喩であることは言うまでもないが、しかもそこでの映像が、まったく同じ構図でありながら、部分的に異なるショットの積み重ねとなっていることで、時間による変化を感じさせるのである。

 大きな事件は起らない。足を骨折してしまった義父の誠(イッセー尾形)の身の回りの世話するために、2ヶ月間大分に行くことになり、雄太(柄本佑)が東京からフェリーに乗り込む。映画において描かれるのは、写真館を営む誠をサポートする雄太の日常と、まだ幼い娘の花と東京に残り、花を保育園に送り迎えしつつ、中国系外国人旅行客の東京見物のアテンドをしている雄太の妻・ゆき(穂志もえか)の日常である。要するにホームドラマ的な映画なのだが、一般的なホームドラマと違うのは、夫と妻が別々の場所で日々を過ごしており、おたがいの近況を知らせるために、スマートフォンで撮った動画を毎日ように送り合っていることだ。

 映画『メモリイズ』は16ミリフィルムで撮影されている。そのなかに、雄太やゆきがスマートフォンで撮影したデジタル映像が混じることになる。画面の作り方などに加え、画質の違う二種類の映像が同じ映画のなかに存在するわけだ。当然ながら、観客は映像のあり方を意識せざるをえない。しかも、雄太やゆきの日常として示された出来事が、そのあとで、スマートフォン撮影のいわばホームムーヴィーとして映る場合もある。そうなると、映画のなかの現実として見ていた出来事が、ホームムーヴィーによる繰り返しで、過去として意識されるのである。

 冒頭とラストの窓のシーンでは、同じ構図のままの新たなショットが接続されることで、その前のショットが過去になっていく。一方、日常の描写もまた、ホームムーヴィーとして反復されることで過去へと送られていく。現在を過去へと変貌させる装置としての映像は、必然的に、記憶と関係してくるだろう。

 そのことを象徴するのが、終盤近くに、誠が昔の写真をスライド上映するシーンだ。そのスライドには、すでに亡くなっている誠の妻・詩織(香椎由宇)が映っている。そもそも、ロラン・バルトが喝破したように、写真はつねに過去形で存在する。シャッターを切った時点では現在であっても、写真になったとたん、それは過去形にならざるをえないのだ。現在を連続的に撮影することで成り立つ映画は、そうした写真の過去化の機能を宙づりにしているにすぎない。『メモリイズ』は、その宙づりの機能をあえて不活性化させるのだ。

 誠が上映するスライドを見ているうちに、雄太は、スライドに映っている場所に自分とゆきも行ったことを思い出し、やがてスライドに、雄太たちが同じ場所で撮影した動画が混じるようになる。同時に、写真にしか映っていなかったはずの詩織が、ごく短い瞬間ではあるが、動く映像として現われてくる。現在を過去に変換する装置としての写真=映画が、雄太や誠の記憶を呼び覚ますのである。

 『メモリイズ』は、学生時代から映画制作をしていたという坂西未郁監督の長篇第一作となる。彼の父親も映像ディレクター・映画監督で、映像をとおして父親に向き合うことが間々あったというが、そうした映像体験がこの作品には活かされていると言えそうだ。

 特に実験的なことなどをしているわけではないが、映像のもたらす作用について考えをめぐらさずにはいられなくする作品であり、大変興味深い。

 ひとつやや残念なのは、スライド上映のシーンに続く、雄太と誠が野火を見るシーンのあり方だ。昔、誠と詩織はふたりで野火を見たことがあり、その記憶が当然ながら蘇る一方で、スライドのシーンからの延長として、東京にいるはずのゆきと花も、いつのまにか雄太や誠と一緒に野火を見ている。要するに、誠だけでなく、雄太の記憶も活性化された結果として生じた幻想的なシーンであり、不在の詩織もそこに招喚されているはずである。まさに、この映画のクライマックスとも言えるのだが、映画を観終わったあと、この野火のシーンがさほど印象に残らない。

 詩織をスライドと部屋に飾られた写真のなかでしか見せないという坂西監督の選択自体はまちがいではないと思うが、もう少し彼女の記憶を喚起する要素を画面や物語のなかに入れておくと、野火のシーンがより活かされたのではないだろうか。


6月12日(金)公開

公式サイト






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