シングルマザーとロック——『FUJIKO』
- 昌親 谷

- 5月21日
- 読了時間: 3分
ひと言で説明してしまえば、シングルマザー奮闘記といった内容の映画だ。ただ、オープニングクレジットでロックが鳴り、画面はその音に合わせたアニメーションとなるし、劇中の一種のクライマックスでもこの「ロック+アニメ」が登場して、それこそ映画が活気づけられるのが印象的だ。
もうひとつの特徴は、時代設定が1977年から80年代はじめのあたりになっていること。これは、木村太一監督が、自分の姉を実際にシングルマザーとして育てた母親の物語を映画にしたいと強く望んだからだ。母親の人生が、「沢山の人に希望と勇気を与え、共感を生むと確信している」と木村監督はプレスシートに記している。たしかに、片山友希が演じるシングルマザーの奮闘は、観客に「希望と勇気」を与え、「共感」を生むだろう。
しかし一方で、この映画を観ていると、これを1970年代後半から80年代初めの物語として撮る必要がどこまであったのか、とやや疑問になってくる。もちろん、木村監督の母親をこの時代をシングルマザーとして生きたのだろうが、だからこの時代に物語を設定しなければいけないということには必ずしもならないように思うのだ。実際、この映画で物語の時代背景を示すのは、人物たちの髪型や洋服などを除けば、少しだけ出てくる中ピ連ぐらいにすぎない。
たしかにその時代にシングルマザーとして生きいくのは大変であったろう。だが、いまのほうが少しはよくなったとはいっても、あいかわらずシングルマザーにとってはあまり生きやすいとは言えない社会であることは変わらないような気がするのだ。トリュフォーの長篇第一作である『大人は判ってくれない』(1959年)には、不良少年だったトリュフォー自身のエピソードがあちこちに詰め込まれているが、時代設定は、トリュフォーが少年だった時代ではなく、映画が撮られた1950年代終わりということになっている。木村太一監督の場合も、母親の物語を現代に移して語ることもできたのでないだろうか。そのほうが、むしろ観客の「共感」を呼べたのではないだろうか。
そうではなく、あくまで1970年代から80年代にかけての物語にするのであれば、もう少し時代性を盛り込む必要があったように思う。
とはいえ、シングルマザー奮闘記としてはよくできているだけでなく、随所に独特のユーモアも盛り込まれていて、観客を飽きさせない作品ではある。さらに、ただ苦労して子育てをしたというだけではなく、ヒロインの富士子の一種の成長譚にもなっている。そこに例のロックがからんでくるのだが、病気で身体が不自由な父親の代わりに富士子をエレキギターをつまびくといったエピソードはあるものの、富士子とロックの関係があまり描かれないまま、ラスト近くになって「ロック+アニメ」で富士子の決意が示されてしまう。
言葉では説明しにくい決意であり、そこを大音響のロックと自由闊達なアニメで示すというのもわからなくはないが、この映画にとってはやはり重要な要素となる富士子の決断だけに、いきなりの「ロック+アニメ」にしてしまうのではなく、映画としてのそれなりの描写を、一観客としては見たかったと思ってしまうのである。
6月5日(金)より公開
『FUJIKO』公式サイト
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