『詩人iidabii』と『声をあげるということ』
- 昌親 谷

- 6月19日
- 読了時間: 4分
あまり間隔をあけずに、2本のドキュメンタリー映画を観た。
一本は、いわゆる宗教2世であり、朗読詩人でもある人物を3年間にわたって取材した『詩人iidabii ある宗教2世の記録』。
もう一本は、2019年に性犯罪事件について無罪判決が続いて出たことに反発して起きた「フラワーデモ」や「#With You」の運動のなかで中心的な役割を演じた複数の人物を取材した『声をあげるということ——性犯罪 刑法改正の記録』。
どちらも、社会の歪みに苦しむ被害者を長期にわたって追いかけて映画化した作品であり、当初はテレビ・ドキュメンタリーとして企画したものの、テレビという媒体にそぐわないという判断で企画が通らずに映画という表現手段を選んだという点も共通する。
丹念に取材を重ね、真摯に被写体に向き合うことで、重要でありながらも人びとが必ずしも意識してい問題を浮き彫りにした2本のドキュメンタリー映画であり、観ているなかで、さまざまな感慨が湧いてくる。ぜひ多くの人に観てもらいたいものだ。
その一方で、この2本を観ていると、ドキュメンタリー映画を作品としてとらえることのむずかしさをあらためて感じてしまう部分がある。この2本の映画は、ただ記録映像を時系列順に編集しただけではなく、それぞれ作品としてのあり方も意識されていると思われるだけに、余計そうしたことを感じてしまうのだ。
『詩人iidabii』の場合、被写体となるのが、宗教2世であるというだけでなく、朗読詩人であるという点が大きい。詩といっても、半ば音楽であり、半ば叫びであるので、パフォーマンス性が高く、映像表現向きだ。ときにはむせ返りつつもシャウトするiidabiiの姿は観客の心を揺さぶるだろう。まさに「魂の叫び」なのである(ちなみに、そうした「詩」が一方にあり、それとは別に、いわゆる文学における「詩」があることを、どう考えていくのか、という問題もあるのだが、それは置いておこう)。単にカルト宗教の被害者としてでなく、ひとりの表現者という視点でiidabiiをとらえることで、この映画は作品たりえている部分があると思う。
もう一本の『声をあげるということ』は、複数の人物を追ったドキュメンタリーであり、作家や俳優なども含まれるが、表現者として描くわけではなく、なかなか表に出てこられない性犯罪被害者がどのように声をあげていくのかといった過程を丁寧に描いている。とくに映画の最後では、この作品のスタッフのひとりのいわば気負いが、当事者を二次被害に遭わせてしまったことを明らかにして、メディアのあり方そのものをあらためて考えようとしている。「フラワーデモ」や「#With You」の運動に携わる人びとを丁寧に描き、映画そのものについての反省的な意識を持つことで、この映画も作品たりえていると言えるだろう。
だがその一方で、この二本を観ていて、どうしても一種の物足りなさも感じてしまう。おそらくいくつか原因があるのだが、両者に共通するものとして、被写体の一種の偏りを挙げることができるかもしれない。どちらも「被害者」と呼べる存在にいわば密着取材をしているところが特徴で、それがなによりも大事なことは言うまでもないが、そのため「加害者」があまり見えてこない。もちろん、「被害者」を追いかけたドキュメンタリーで「加害者」も見せろと要求するのは酷なことだというのはわかっている。「加害者」に寛大になれと言いたいのでもない。それでも、「被害者」の視点だけではどうしても一種の平板さが生じてしまう。
ドキュメンタリーに複数の視点を求めるのはなかなかむずかしいし、ひとつの視点を極めたからこそ見えてくる世界もあるだろう。しかし、特に映画として観る場合、観客としては作品としての厚みがあってほしいと思ってしまう。そのあたりが、作り手にとっても、受け手にとっても、ドキュメンタリー映画というジャンルのむずかしさということになるのかもしれない。
『詩人iidabii』は7月4日公開
公式サイト
『声をあげるということ——性犯罪 刑法改正の記録』は8月1日公開
公式サイト
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