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『映像が動き出すとき』について(その3)

  • 執筆者の写真: 昌親 谷
    昌親 谷
  • 9月18日
  • 読了時間: 4分

更新日:9月29日

 前回からだいぶ期間があいてしまった。研究会はやっていたのだが、春先は、ちょうど刊行を間近に控えた本のための執筆やら編集やらで忙しく、そのまま授業も始まって、ガニングの著作について書く余裕がなかった。そして、時間が経つと、書く意欲も減退しがちだ。

 とはいえ、この間に第5章から第7章までを研究会で読んでいるので、簡単に振り返っておこう。


 まず第7章「動きのアトラクション——近代的表象と運動のイメージ」について。「動きのアトラクション」はまさにこの本のテーマであり、ガニングにとっても重要な概念のはずだが、ここでは映画そのものはごくわずかに出てくるだけで、前半はロイ・フラーの蛇ダンスが論じられる。「軌跡に沿った点の連続」といった「運動の古典的概念」に対立するような「動きの多様な可能性」を示すフラーのダンスは、「それ自体スペクタクルであるような動き」だとされるのだ。

 同じ章の後半では、ファントム・ライドが取り上げられる。もともと、列車の車窓の風景と映画の親近性については、いろいろな機会に論じられてきた。ガニングのファントム・ライド論のなかでおもしろいのは、列車の先頭に置かれたカメラで撮影された映像が、「遠近法の伝統的な図式を転倒」させるとしている点だ。つまり、消失点にあたる地点に次々と新しい眺望が生じてくるわけで、「遠方は、事物が消失する点ではなく、可視性への入口となる」のである。

 ロイ・フラーのダンスやファントム・ライドにおける動きはたしかに注目に値するが、ではそれを映画との関係でどう考えるのか、といったあたりをもう少し掘り下げてほしい気がする。


 続く第6章「静止したイメージと動くイメージのあいだの戯れ——一九世紀の「哲学玩具」とその言説」では、副題にある哲学玩具がテーマとなる。この哲学玩具とは、一般には映画の祖先として語られることの多い、ソーマトロープ、フェナキスティスコープ、アノルトスコープ、ゾートロープなどだ。それぞれの玩具に関する記述は興味深いものだったが、それが哲学玩具として用いられたのは、人間の眼の錯覚を暴くためであり、要するに感覚なるものがいかに当てにならないかを実地に示すためだったというのを、このガニングの文章を読んで初めて知った。これまでは、人間がいかに動くイメージに魅せられてきたかを示すものとして、これらの玩具が例に出されるといった説明に接してきただけに、意外だった。

 しかし、上記のファントム・ライドもそうだが、そもそも静止しておらず、つねに動くということが、遠近法的な視覚やそれと密接に結びついたデカルト主義の観点からは非難すべきものになるということなのだろう。以下のガニングの言葉が興味深い。

 「なにより重要なこととして私が主張したいのは、動くイメージの絶対的な新奇さ——これらの装置すべてのうちで実に魅力的な仕方で明らかになるもの——が、その初期の解説者たちにとっては不安の種(または少なくとも混乱の種)として提示されていたということ、それゆえ彼らは動くイメージのことを、静止したイメージという「現実」と人間による知覚の誤謬とに基礎づけられた「錯覚(イリュージョン)」へと還元するような説明をしたということである。この言説からは視覚的知覚がもつ可動的な性質を認めまいとする強力な偏見が明らかになるのであり、それは映画研究やメディア研究がいまなお転覆しようと努めなくてはならない偏見なのである」(p. 230)


 そのあとの第7章「変容=変形する(トランスフォーミング)イメージ——運動とメタモルフォーゼというアニメ―ションの起源」からはアニメーションを扱ったパートとなる。

 アニメーションを映画の一ジャンルとしてとらえるのではなく、動くイメージはすべて一種のアニメーションであり、そのひとつのかたちが映画だというのがガニングの立場であり、この本の特徴でもある。

 この章では、ブロウ・ブックやフリップ・ブックを——両者のあいだには差異があると言いつつ——紹介するなかで、メタモルフォーゼや変形=変容を生み出す魔術的な表現との関係で論じ、それを最終的にはメリエスのトリック映画に結びつける。こうした展開自体は非常におもしろい。だが、ブロウ・ブックやフィリップ・ブックはあくまで絵を見せていたわけで、いわばアニメーションに近いのだが、それと、いくらトリックが使われているとはいえ、実写であるメリエス作品を同列に論じてよいものか、やや疑問に思えてしまう(もちろん、アニメーションの一ジャンルとしての映画というガニングの考え方も理解はできるのだが……)。


 
 
 

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