top of page

『映像が動き出すとき』について(その2)

  • 執筆者の写真: 昌親 谷
    昌親 谷
  • 2月24日
  • 読了時間: 5分

 2月22日(2025年)に、研究会を開き、『映像が動き出すとき』の続きについて報告があって、そのあと意見交換をした。

 今回取り上げたのは、第3章「継起性の芸術――コミックを読むこと、書くこと、見ること」と第4章「インデックスから離れて—―映画と現実性の印象」。ちなみに、第3章までが第1部「遊戯するイメージ」で、第4章からは第2部「〈動き〉としてのイメージ」に入る。

 第3章「継起性の芸術」は、そのタイトルにもあるとおり、コミックを「継起性の芸術」ととらえる論考だ。絵画と比較した場合に、コミックに継起性があることは当然とも言えるが、そうした論旨をたどるうえで、ガニングは絵画とコミックのあいだにパノラマをはさんでいる。パノラマは、古典的な絵画を成り立たせていた「単一の消失点」から解放され、「可動的な視線」を呼び込んだというのである。さらにガニングは、アメリカとイングランドで盛んになったムーヴィング・パノラマにおいては、ヴァーチャルな継起が実際の運動になるとともに、パノラマで廃棄されていたフレームを復活させるものの、フレームを提示すると同時に切り崩していると述べる。動くイメージが観客の前を通り過ぎていくこのムーヴィング・パノラマにおいて、「フレームは、イメージの境界を規定する代わりに、浸透力のあるものとして、容易に避けたり通り抜けたりできるような恣意的な障壁(バリア)となる」(p. 104)。

 フレームはあるが、イメージそのものが動くわけではなく、読者が継起性を感じ取っていくコミックは、パノラマとムーヴィング・パノラマの両方の特徴を兼ね備えているということになるのだろう。つまり、イメージに潜在的な動きをもたらすとともに、「アクションを追いかけることができる読者 / 観者」が作り出されたのである。このように、パノラマやムーヴィング・パノラマとの関係でコミックを考えるという発想はたしかにおもしろい。

 付け加えると、ガニングは言葉の継起性とイメージの同時性を対比的に考えているので、コミックは、ベンヤミンがバロックにおけるアレゴリーについて述べていたように、象形文字的になり、「視覚的なものへと向かう」という論法になる。このあたりは、表音文字の文化として成立した西欧ならではのいわばノスタルジックな視点と言えるかもしれない。

 それからもうひとつ、本筋とはあまり関係ないが、ガニングが、メディアの純化に向かうモダニズムに対し、ポスト・モダニズムを、それこそコミックというメディアに典型的に見られるような、雑種性として考えているあたりも興味深い。もちろん、これだけがモダニズムとポスト・モダニズムそれぞれの特徴ではないだろうが、こうして両者をとらえると見通しがよくなる部分があるのはたしかだろう。


 続く第4章「インデックスから離れて」は、インデックスと運きという、この書物の中心的なテーマを正面から扱った章になっている。ごく簡単にまとめてしまえば、次のようになるだろうか。アンドレ・バザンは、映画が写真から引き継いだインデックス的性質、すなわち「事物からその写しへと、実在性が譲り渡される」(『映画とは何か(上)』、p.16)という点に立脚して映画的リアリズムを論じているのに対し、ガニングは、デジタルメディアの普及によってそうしたバザン的なリアリズムが説得的でなくなっているなか、動きこそがインデックスに代わって(あるいはむしろ、インデックスを補完しつつ)映画を成り立たせるとともに、映画に「現実性の印象」をもたらすと述べる。こうした主張を、ガニングは、クリスチャン・メッツのあまり知られていない初期の論文「映画における現実感」を援用しつつおこなっており、観客がスクリーン上に見る運動は、表象ではなく現実であって、だからこそ、たとえばカメラ移動のような視覚的な動きも、観客に視覚的な影響にとどまらない、「運動感覚の生理的な効果を生み出す」(p. 166)と述べるのである。

 従来の映画理論において、たしかに、動きというものをその根本から問い直すような議論はあまりされてこなかったような気がする。そういう意味では、ガニングのこの問題提起は非常に興味深い。ただ、バザン的なリアリズムと、ガニングが論じようとしているリアリズムのあいだにはズレもあるように思うので、そのあたりについてはもう一度考えてみる必要があるかもしれない。実際ガニングは、ファンタジーのようなジャンルでも、映画は動きがあることで現実の印象をもたらすと述べているのだ。それと、これは他の論文も読んでみないとわからないが、この第4章だけ読むかぎりでは、ここで言われている運動が具体的にどういうものを指すのか、あまりはっきりしない(どんなものでもただ動きがあれば、それでガニングが言うリアリズムが生じるというわけでもないだろう)。

 いずれにせよ、こうして運動に着目することで、コミックの場合と同じく、ガニングは作品の鑑賞者の身体性を浮き彫りにしているという点もおもしろい。

 それから、一般に写真は、まさにそのインデックス性ゆえに過去形になる(すなわち被写体を「かつてあった」ものとして示す)のに対し、映画の場合、写真の連続でありながら、運動があることで、観客は虚構世界を「現在として経験する」(p. 171)としている点も注目に値する。これはたしかに写真と映画の違いを明確に規定する論点だと言えるだろう。




 
 
 

最新記事

すべて表示
『映像が動き出すとき』について(その1)

もう何年前からだろう、おそらく20年近くにはなるのではないかと思うが、若い友人たちと研究会をやっている。最初は漠然と「モダニズム研究会」のような感じだったのだが、ある時期から「Image Study Session」という名称にして、イメージ論的な観点からいろいろな問題を扱...

 
 
 
大江健三郎と原尞

また不在の日々を重ねているうちに、2023年もあと1時間ほどで終わることになってしまった。 今年も、多くの方が鬼籍に入っていった。日本の文学者のなかでは、やはり大江健三郎のことがまずは思い返される。すでに小説は発表しなくなっていたとはいえ、エッセイのたぐいは書いていたし、「...

 
 
 
かくも長き不在

「かくも長き不在」、それはマルグリット・デュラスが脚本に参加した映画のタイトルであり、戦争のせいで「不在」となった男の物語だが、ここでは、新作映画のことなどを定期的にblogに書くと言っておきながら、4か月ほども「不在」となった男のことだ。...

 
 
 

Comments


© 2021 by MASACHIKA TANI. Proudly created with Wix.com

  • Facebookの - ホワイト丸
bottom of page