『映像が動き出すとき』について(その4)
- 昌親 谷
- 9月29日
- 読了時間: 3分
先日、研究会があり、『映像が動き出すとき』の最後の2章、すなわち「第8章 瞬間に生命を吹き込むこと——アニメーションと写真のあいだの秘められた対称性」および「第9章 ゴラムとゴーレス——特殊効果と人工的身体テクノロジー」を取り上げた。これで『映像が動き出すとき』をとりあえず読了したことになる。
最初にこの本の目次を見たときは、第7章から第9章が「第三部 アニメーションという魔術」としてまとめられ、巻末に置かれているのが(巻末に置くということは、それなりに大事なパートとなるはずなので)、やや奇妙に感じられた。おそらく、以前読んだ「アトラクションの映画——初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」(長谷正人・中村秀之編『アンチ・スペクタクル』)の印象が強く、映画における運動の見世物性というのを、映画におけるいわゆるアクションと捉えてしまっていたからだろう。
ところが、本書第8章を読むと、そうではなく、「静止から動きへの旋回」(p. 278)にガニングの関心はあったということがはっきりする。そして彼は、マイブリッジやマレーの連続写真のうちにも「解放されることを求める痙攣状態のようなもの」(p. 291)として運動を見ているわけだ。ガニングにとっては、顕在的な運動よりも、むしろ運動の潜在性であり、静止から動きへの変容なのだ。そしてそれこそが、彼に「驚き(ワンダー)」をもたらすのである(そうした顕在性から潜在性に向かう関心のあり方を、夢の顕在的内容から潜在的内容のほうに向かったフロイトに比較することができるだろうか)。
そのように「驚き」をもたらす潜在性に敏感であるからこそ、ガニングは、第9章では、「あらゆるもものが潜在的に霊魂を持つという神話的アニミズム」(p. 336)の観点から、一種の人造人間の創造、すなわち「完全なる人間存在のシミュラークルを複製する」夢について語ることになるのである。 そして、最新のデジタル・エフェクトは、「人間の形態を動物界や鉱物界へ結びつけて幻想的に変化させたものを提供するだけでなく、事物それ自体を生命あるもの(アニメイト)とみなす視点も提示する」(p. 338)という点で、まさにアニメーションということになるわけだ。
このように考えてくれば、映画の下位ジャンルとしての狭義のアニメーションとは別に、むしろ映画そのものをうちに含んだものとしてアニメーションという発想が出てきてもおかしくはない。
それはよくわかったが、ならばガニングは、映画のなかで展開されるアクションとしての運動のことはどう考えているのだろうか。静止から動きへの変容があくまで問題なのだから、いったん動き出した映画のなかのアクションにはさほど心を動かされない、ということなのだろうか。
コメント