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執筆者の写真昌親 谷

W杯と政治

ずいぶんと空白を作ってしまった。収束に向かいそうでなかなかそうならないコロナ禍のなかで、なにか急き立てられるように授業をしたり、会議に出たり(大半はオンラインだが)して、余裕をなくしていたような気がする。しかも、たまたま執筆や翻訳の仕事もいろいろたまっていて(これにもコロナ禍が多少は関係している)、それとは別に文章を書く余力がなくなったようだ。もちろんそれらは言い訳にすぎず、結局、書きたいという欲求がそこまでなかったということなのだろう。それにぼくは、雑誌などの原稿ではなく、かといってあくまで自分のために書く日記や手記のようなものとも違い、その中間のような位置づけになるBlogという形式に、いまだに馴染めずにいる。でも書いてみたい気持がないわけでもない……。ならば、とりあえずはひとり言でもいいので、書いていくしかないのではないか……。


 コロナ禍が始まったとき、昔のスペイン風邪のことを連想したのだが、そうこうするうち、今年になってロシアがウクライナに侵攻した。スペイン風邪が流行ったのは、第一次世界大戦が終わる時期からだが、コロナ禍に戦争が重なると、やはりあの時代に似ているような気がしてしまう。いまのところ戦火は拡大していないが、これからどうなるかわからない。コロナ禍と戦争で物価が上がり、物資やエネルギーの不足も生じている。どうしても暗い世相となるなかで、今回はいつもとは異なり11月からの開催となり、しかも日本代表チームの活躍もあり、サッカーW杯が明るい話題を年末に提供した。実際、印象的な大会ではあった。日本がドイツやスペインに勝ったというだけでなく、アジア勢がそれなり活躍し(結局、すべてベスト16どまりだったが)、クロアチアが驚異的なねばりを示し、モロッコがすばらしいパフォーマンスを披露し(これまで活躍したアフリカ勢はいわゆるブラックアフリカだっただけに、マグレブのチームがあれほど勝ち上がるとは思っていなかったが、たしかに力のあるチームだった)、決勝戦も緊迫した展開だった(決勝戦は意外に平凡な試合になることが間々あるが、今回は、アルゼンチンが一枚上手ではあったものの、フランスが二度も同点に追いつき、締まった試合になった)。

 だが、そのように盛り上がりを示した大会だっただけに、逆に「スポーツウォッシング」という言葉が浮かんでしまう。もちろん、W杯にかぎらず、大きなスポーツ大会にはどうしても政治がらみの側面が生じる。東京オリンピックの場合は、コロナ禍の危険をごまかしてオリンピックを強行した点がスポーツウォッシングだとされたわけだが(この問題については、アスリートたちが利用されているという観点から、作家の星野智幸士が新聞に寄稿した文章をぜひ読んでもらいたい)、今回のW杯については、カタールにおける外国人労働者への人権侵害(それはW杯のための急ピッチでのスタジアム建設でひときわ深刻なものとなった)と同性愛者への差別的扱いに対する抗議があったにもかかわらず、そうした問題が大会の熱狂のなかで洗い流されたとされている。さらにフランスでは、決勝戦のあとに選手たちを慰めるマクロン大統領の様子が人気取りだとされたが、これも一種のスポーツウォッシングと言えるかもしれない。

 もっとも、これはかなり微妙かつ難しい問題で、東京オリンピックに出場したアスリートは、オリンピックを開いてもらったことを感謝しただろうし、カタールの人権侵害を批判する欧州そのものが、かつては植民地政策をおこない、奴隷貿易に加担していたのだし、いまの欧州サッカービジネス自体に人権侵害まがいの出来事はいろいろと付随している。しかし、だからといって「スポーツウォッシング」を可視化しないでいると、アスリートたちが政治の道具になってしまいかねない。実際、オリンピックやW杯ほど人びとに国民意識を持たせるのにふさわしい機会はないのだ。

 だらかこそ逆に、たとえば日本代表の選手や監督には、「日本国民のみなさん」のことなどあまり気にするな、と言ってやりたくなる。期待された結果を出せなくても、それは「日本国民の期待を裏切った」ことなどにはならないはずだ。応援している側は、ただ応援したいからそうしているにすぎない。期待どおりの結果にならなくとも、それは「裏切り」などではないし、ましてや「日本国民」とは関係がない。「日本国民」と呼ばれる人たちのなかには、W杯に熱中できない人だって大勢いるはずだ。そういえば、坂元裕二が脚本を書いたドラマ『それでも、生きてゆく』(2011)は、殺人事件の加害者家族と被害者家族の関係を描いた秀作だったが、加害者の妹も被害者の兄も、日韓ワールドカップに熱中できなかったという思い出を抱いていた。「日本国中が応援している」といった言説によって「国民」は作り上げられていく。

 要するに、ともすればスポーツはプロパガンダに使われてしまわれがちなのだ。そしてそれはスポーツだけの話ではなく、芸術もそうだろう。困難な時代ほど、プロパガンダ作品が生まれやすい。だいいちぼくたちは、スポーツと芸術がみごとに結びついたプロパガンダ作品があるのを知っている。レニー・リーフェンシュタールが監督した1936年のベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』である。『オリンピア』は実に美しい映画だ。しかしその美しさは、「スポーツウォッシング」と「アートウォッシング」がみごとに結びついて生まれてきた美しさだったことを忘れてはならない。


*星野智幸氏の東京オリンピックについての記事



 

 

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